2025.2.5
― 新会員スピーチ ―
「私がそだった山科のこと」
奥村 肇 君
私は伏見生まれ、山科育ちであります。父は山科生まれですが、母は下京の生まれですので、洛中の血が半分流れていると、秘かに思っております。母は5人兄弟の下から2番目で、相当なオテンバだったそうです。堀川高校の女学校時代はバスケットに熱中しており、全国大会決勝でラジオ実況されたことを自慢しておりました。また、洛中育ちが、田舎の山科に嫁いだことをよくネタにして父を揖斐ッておりました。
高度成長期を山科で過ごした私は、遊びまわった田畑や野原が、ものすごいスピードで住宅地に代わっていく様を目の当たりにし、やるせない気持ちになった記憶が残っております。そのような山科ですが、古代から人が住んでいたようです。中臣遺跡では、旧石器時代からの集落跡が発見されました。奈良の興福寺の前身とも言われております中臣鎌足の館がここにあったのではないか、という説もあります。ともに大化の改新をおこなった天智天皇のお墓も山科にあります。醍醐寺に匹敵する規模だったといわれております安祥寺跡や蓮如の宗教都市山科本願寺跡など、埋もれた名所旧跡が点在しており、もっと掘り起こせば山科も賑やかになるのでは、と思います。
行政区としての山科は江戸時代から明治、大正にかけて宇治に属しておりました。昭和初期に京都市に編入され東山区山科となり、現在は山科区として独立しております。夏は江州音頭とともに河内音頭が鳴り響きます。少年のころ、友人とかわす言葉はドギツイ河内弁でした。三方が山で囲まれ、昔から宇治、河内地方と人的、文化的交流が盛んであり、京都市街とは異なる独自の地域文化が育まれてきたのではないかと思います。
少年時代の山科はすっかり変わり果て、結婚を機にその山科を離れることになりました。いつしか、心まで離れてしまっていることに気が付いたのは、母の死がきっかけでした。遺品を整理していると、洛外の田舎へ嫁ぎ、地域になじもうと努力し、奮闘している姿が想像できました。しかし、いっぽうで、山科を一番楽しんでいるのが、母であることを感じるのでありました。
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