2018.12.19

「茶壺に追われて~宇治茶のこぼればなし」
宇治茶伝道師・宇治商工会議所 副会頭
小山 茂樹 氏

日本では聖徳太子の時代にお茶が飲まれていたという記録もあるが、残念ながらその飲み方は伝わっていない。喫茶法が今に伝わるお茶の歴史は、鎌倉時代初期に栄西(ようさい)禅師が中国から種を持ち帰ったことに始まる。茶の種を譲り受けた明恵(みょうえ)上人が栂尾の高山寺に茶園を開き、のちに宇治に茶園を開いた。それが宇治茶の始まりとされている。やがてお茶は全国へ広まり、いろいろなところで抹茶が飲まれるようになっていった。

抹茶の葉を挽く茶臼は、左回しで回す目立てになっている。穀類の臼は右回しだが、茶臼だけがなぜか左回し。理由はわからない。石臼の周りには溝(目)が無い外周平滑面がある。この平たい部分で抹茶の粒はより細かく潰され、馥郁とした香りを放つ。粉砕機で作る抹茶は、色も香りも味も、石臼で挽いた抹茶にはかなわない。また、戦国時代には茶臼が、火薬の原料である炭を細かくする道具としても使われた。

江戸時代になると、宇治茶は幕府の庇護を受けて発展した。宇治にあった幕府の直轄領で作ったお茶は御茶頭取という代官が壺に詰め、封をして江戸へ運ばれた。その行列が「御茶壺道中」だ。御茶壺道中は格式が高く、道中で行き会う大名行列よりも優先された。「茶壺に追われてとっぴんしゃん」というわらべ歌は、茶壺が近くを通る時に何か不敬なことをしたら大変だからと、人々が戸をぴしゃんと閉めて家に閉じ籠もる様子を歌っている。

お茶がここまで優遇された理由は何だったのか。当時、宇治の茶師たちは、武家や公家の台所まで入ることが許されたから、各家の情報を集めることができた。その記録を茶壺に入れて将軍に送り届けていたのではないか、とも考えられる。このように、お茶は時の権力者と強いつながりをもって発展してきた一面がある。

最近では、お茶が優れた健康飲料であると認められるようになった。「茶」という字は、草冠(十が二つ)に八十八と書く。合計すると108だ。お茶を飲んで108歳「茶寿の祝い」まで健康長寿をめざしていただきたい。

私たちは「宇治茶」の世界文化遺産登録をめざして、これからも宇治茶の魅力を伝えていきたいと思っている。

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