2017.8.9

「狂言と茂山家」
能楽師 狂言方
茂山 千作 君

能狂言は奈良時代に中国から伝わった「散楽(さんがく)」という芸能が元になっています。「さるがく」という名で社寺の行事で舞われていました。奈良には結崎(観世流)、外山(宝生流)、坂戸(金剛流)、円満井(金春流)の四つの座ができ、それに徳川秀忠の庇護を受けた喜多流が加わり、「四座五流」と呼ばれています。
わが家の初代は戦国時代の又兵衛です。四代目までは馬術指南役でしたが、五代目の徳兵衛が京都の狂言師だったという記述が元禄の頃の書物「能之訓蒙図彙」にあります。

天保のころには、九代目の千吾正乕(まさとら)が彦根藩に召し抱えられます。井伊直弼の娘の誕生を祝う席で「枕物狂」のシテをつとめていた狂言師が倒れた際に、その代役を見事にこなしたためです。その場で殿様が誤って「千五ろ」と呼んだため、千吾は彦根では「千五郎」、出入りを許されていた御所では「千作」と名乗るようになります。それ以降、千五郎は茂山千五郎家の当主名として代々受け継がれ、千作は隠居名となりました。

明治に入ると、十代目正重(二世千作)は気軽に狂言を楽しんでもらおうと、どこにでも出ていきわかりやすい表現で演じるようになります。保守的な能楽師からは「気軽に出て行くのは豆腐のような奴」と悪口を言われましたが、二世千作は「豆腐で結構」と狂言の普及に力を尽くしました。こうして、茂山千五郎家では誰からも愛され、飽きがこず、味わい深い「お豆腐狂言」を目指すことになりました。

三世千作の真一(まさかず)は割とおとなしく家の芸を守った人でしたが、私の父、四世千作の七五三(しめ)と弟 千之丞は、他の芸能と積極的に交わるなど次々に慣例を破ったため、能楽協会から退会させられそうになったこともありました。

祖父の三世千作は勲三等瑞宝章を受け、父の四世 千作は狂言界では初の文化勲章を受章しました。これはプレッシャーでもありますが、私も広く狂言の魅力を伝える「おとうふ主義」を掲げ、ファンクラブ「クラブSOJA(大豆)」などの活動を通じて頑張っているところです。

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